サウナの常連
行きつけのサウナで、いつも同じ時間に会う年上の男。名前も知らない。交わすのは、水風呂のあとの短い会釈だけだった。
文字
行間
名前も知らない男だった。
平日の夜、仕事帰りに寄る、古いサウナ。その男とは、いつも同じ時間に会った。ロウリュの熱気のなかで、隣に座る。水風呂で、少し離れて浸かる。整いの椅子で、目を閉じて並ぶ。それだけの、言葉のない関係。年上の、無駄のない身体をした人だった。会話なんて、水風呂のあとの、どうも、という会釈くらいのものだった。
でも、その会釈を、俺は一日の終わりに、たぶん誰よりも待っていた。
その夜は、雨だった。客が少なくて、サウナ室には二人きりだった。砂時計の砂が落ちる音まで聞こえそうな静けさのなかで、男が、ぽつりと言った。
「いつも、この時間だね」
はい、と俺は答えた。心臓が、熱気とは別の理由で鳴った。
「仕事、大変なの」
まあ、それなりに、と俺は言った。それから、少しの沈黙。汗が、背中を伝って落ちた。
「顔見ると」男が、前を向いたまま言った。「なんか、ほっとするんだよな。おかしいだろ」
おかしくないです、と俺は言った。声が、掠れた。俺もです、とは、まだ言えなかった。
水風呂を出て、整いの椅子に、二つ並んで座った。雨の音が、換気口から遠く聞こえていた。男の手が、肘掛けの上で、俺の手のすぐ隣にあった。ほんの数センチ。その数センチを、どちらも、動かさなかった。
「なあ」男が言った。「今日、一杯だけ、どう」
名前も知らないままの男が、初めて、サウナの外へ誘った。俺は、整ったばかりの頭で、はい、とうなずいていた。