行きつけの、閉店後
十年通った小さな居酒屋が、来月で閉まる。無口なマスターと、最後の夜、二人だけの店で。
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十年通った店が、来月で閉まる。
駅裏の、カウンターだけの小さな居酒屋。俺が社会人になってすぐの頃から、通っていた。無口なマスターだった。歳は、たぶん俺より十五は上。余計なことは何も訊かない。ただ、俺が疲れた顔で暖簾をくぐると、黙って、その日いちばん旨い酒を出してくれる。それだけの人だった。
それだけの人に、俺は、十年間、救われ続けてきた。
最後の夜、店には俺しかいなかった。看板の灯りを消して、マスターが、暖簾を仕舞った。それから、俺の向かいに、初めて座った。十年通って、この人が客の側の椅子に座るのを、初めて見た。
「長いこと、ありがとうな」マスターが言った。
こっちの、台詞ですよ、と俺は言った。声が、うまく出なかった。
二人で、店の酒を空けた。マスターが、ぽつぽつと話した。この店を始めた頃のこと。奥さんと、若い頃に別れたこと。ずっと、一人でやってきたこと。俺が知らなかった、この人の十年より、ずっと前の話。
「お前さんのことは」マスターが、手酌をしながら言った。「ずっと、気にかけてた。……なんでか、わかるか」
わからないです、と俺は言った。本当は、わかりたかった。
マスターが、俺の空いたグラスに、酒を注いだ。その手が、少しだけ、俺の手に触れた。離れなかった。カウンターの内側と外側で、十年、決して越えなかった一本の線が、その夜、静かに消えた。
「店は、なくなるけどな」マスターが、俺の目を見て言った。「お前さんとは、これで終わりにしたくない」
閉店後の、誰もいない店で、俺は、十年ぶんの返事をした。