隣の単身赴任
アパートの隣室に越してきたのは、単身赴任の中年男だった。ゴミ出しの朝に交わす、それだけの関係のはずだった。
隣に越してきた男は、単身赴任だと言った。
引っ越しの挨拶に来たとき、よろしくお願いします、と俺に頭を下げながら、これ単身赴任なんで何もお構いできませんが、と苦笑した。四十半ば、くらいだろうか。日焼けした、大きな手をしていた。作業着の袖から覗く腕が、ドアの前の薄暗がりでも、はっきりと逞しかった。
それだけの関係のはずだった。
薄い壁一枚を挟んだ隣人。火曜と金曜のゴミ出しの朝、たまたま同じ時間に部屋を出て、おはようございます、と交わす。それくらいの。男は、奥さんと子どもを地元に残してきていて、ときどきベランダで、電話をしていた。壁が薄いから、声は、聞くともなしに聞こえてくる。うん、うん、と相槌を打つ、疲れたような低い声。子どもの話をするときだけ、その声が少しやわらかくなる。俺は、自分の部屋の壁に背中を預けて、それを聞いていた。聞いてしまっていた。
雨の夜だった。
インターホンが鳴って、出ると、隣の男が立っていた。すみません、と困ったように笑っている。手に、缶ビールを二本ぶら下げていた。
「一本、多く買っちまって。……迷惑でしたら、いいんですが」
迷惑じゃなかった。全然、迷惑じゃなかった。
狭い部屋に、男を上げた。座布団もない部屋で、男は壁にもたれて胡座をかいた。缶を開ける、小気味いい音がふたつ。乾杯、というほどでもなく、缶の縁を軽く合わせた。それだけのことで、心臓が一度、跳ねた。
男は、ぽつぽつと話した。仕事のこと。単身赴任のこと。こっちの飯は口に合わない、という他愛のない愚痴。俺は、うまく相槌を打てているかどうかもわからないまま、ただ、その大きな手が缶を握ったり、膝の上に置かれたりするのを、目で追っていた。
「兄ちゃんは」男が言った。「彼女とか、いないの」
いないですね、と俺は答えた。
「もったいないな。若いのに」
若さの問題じゃないんです、とは言えなかった。俺の視線が、さっきからどこを彷徨っているか、この人は気づいていない。気づかれてはいけない。そう思うほど、目が離せなくなった。
雨が、窓を叩いていた。
男が、缶を置いた。そして、こちらをじっと見た。さっきまでの、世間話をする目とは、少し違っていた。何かを、探るような。あるいは、自分でも戸惑っているような。
「なあ」男が、声を落とした。「俺、なんか……変なこと、考えてるかもしれない」
言わないでください、と俺は思った。言われたら、俺は、止まれなくなる。
でも、口から出たのは、違う言葉だった。
「俺も、です」
雨の音が、急に遠のいた。男の大きな手が、畳の上を、俺のほうへ、ゆっくりと滑ってきた。逃げなかった。逃げたくなかった。
壁は、薄い。だから、今夜のことは、きっとどこにも漏れない代わりに、ずっと、この部屋のなかにだけ残る。
男の指が、俺の手首に触れた。地元の家族の写真も、明日のゴミ出しも、その瞬間だけは、どこか遠くにあった。