終電、逃した
打ち上げの帰り、課長の高梨と二人だけ終電を逃した。既婚で、ノンケで、俺より八つ上のその人と。
高梨さんが終電を逃したのは、たぶん俺のせいだった。
二軒目を出たのが十二時前で、駅の改札に着いたときにはもう、電光掲示板の下の段が空になっていた。上りの最終は行ったあとだった。高梨さんは掲示板をしばらく見上げて、それから、はは、と力の抜けた声で笑った。
「やっちゃったな」
やっちゃいましたね、と俺も言った。本当は、掲示板なんて出る前から見なくてもわかっていた。俺が二杯目のハイボールをやたら時間をかけて飲んでいたことも、三軒目に行きますかと言い出せずに、でも解散したくもなくて、レジの前でぐずぐずしていたことも、全部、自分がいちばんよく知っていた。
課長の高梨さんは、俺より八つ上で、既婚で、去年子どもが生まれたばかりだった。デスクの端に、奥さんと赤ん坊の写真を立てている。会社では、そういう人だった。
「タクシー、拾うか。方向、途中まで一緒だろ」
はい、と答える声が、自分でも少し掠れた。
タクシーの後部座席は思っていたより狭くて、乗り込むと肩と膝が触れた。高梨さんは窓の外に顔を向けて、流れていくネオンをぼんやり見ていた。ワイシャツの襟がすこし緩んでいて、そこから覗く喉仏が、信号のたびに赤くなったり、白くなったりした。
俺はそれを見ないようにして、でも結局ずっと見ていた。
「お前さ」高梨さんが、窓のほうを向いたまま言った。「最近、俺のこと避けてるだろ」
心臓が、一度、大きく鳴った。
「避けてないですよ」
「避けてる。会議で目も合わせないし」
信号が赤に変わって、車が止まった。車内が急に静かになって、エンジンの低い震えだけが、シートの下から伝わってきた。高梨さんがこっちを向いた。街灯の白い光が、その横顔の輪郭をなぞっていた。
「なんか、俺、悪いことしたか」
してません、と言おうとして、言えなかった。悪いのは全部こっちだ。あなたが何気なく肩を叩いてくること。俺の名前を、ほかの誰にでもするみたいに、ただ普通に呼ぶこと。そういう、あなたにとっては何でもないことのひとつひとつを、俺が勝手に持ち帰って、夜中に何度も広げ直していること。
そんなこと、言えるわけがなかった。
「──降ります」
え、と高梨さんが言った。ここ、お前んちまだ全然だろ、と。
「ちょっと、酔い覚まします。すみません」
運転手に声をかけて、車を停めてもらった。ドアを開けると、夜の湿った風が入ってきた。降りようとした俺の腕を、高梨さんがつかんだ。強くはなかった。ただ、離してくれもしなかった。
「なあ」
はい、と振り返った俺の顔を、高梨さんはじっと見ていた。いつもの、部下を見る目じゃなかった。もっと困っているような、それでいて、何かを確かめようとしているような目だった。
「──俺も、降りる」
メーターの音が、やけに大きく響いた。
つかまれた腕から、その人の体温が、シャツ越しにじわりと伝わってくる。俺は動けなかった。動いたら、たぶんもう、元のところには戻れなくなる。それが怖くて、でも、その怖さの向こう側を、俺はずっと前から見たがっていた。
高梨さんの手に、力がこもった。
夜は、まだ長い。